便座がコワれる

大陸における便所について語るならば、新書版1冊くらいは楽に書けるに違いない
なにせ1972年に国交が回復して以来、日中関係史のページは日本人が大陸の便所において遭遇した悲劇でいっぱいだ

古典的表現を借りるならば「ニイハオ便所」というものがよく知られている
80年代から90年代にかけてパック旅行で大陸に訪れた人ならばおそらくは目と耳と鼻に残っているのではないかと思うが、要するにカベもトビラもない便所である
万事が透明性に欠ける共産圏にしてはずいぶんと開放的だなどと感心してはいけない
これには大別して2種類に分類され、前者が穴だけのものであるのに対し後者は側溝のような溝になっている

前者は往々にしてレンガ造りの小屋になっていて側面のみ個別に高さ60センチ程度のついたてがあり、各パーティーションの中央にあるA3大の角型の穴に爆弾を投下するようになっており、投下物はある程度集積されてくるとスコップ等で掬いだすようになっている
これは大陸の古典的な便所であり、ちょっと前の農村ではブタ小屋をかねていたものだ
なんでも大陸で便所を意味していた「圂(こん)」と言う旧字は「囲いの中にブタがいる」という意味で、なんのことはない、食物に関する理想的なリサイクルを行う場所であった
サバを食わせた養殖のウナギはサバの味がするというが、数十年前まで大陸のブタ肉はそういう味がしたに違いない

後者は割りと近代的で、なんと水洗式である
これはちょっと前まで駅など公共施設の便所によく用いられていたスタイルで、カベに並行に側溝が切ってあり約1.5メートルごとに1メートルほどの衝立が設けられている
ここで爆弾投下に及ぶ際は室内からの視線に対し側面を向けるスタイルになることから、入り口に向かって正対する前者と比較すると精神的にいくぶんかマシであるが、油断してはならない
たいてい5,6箇所のコンパートメントに仕切られている便所ではあるがすべて同一の側溝の上に設けられており、水洗といえども自分で流すスタイルではない
往々にしてすでに爆撃済みでてんこ盛りになっているところに再び攻撃を加えることになるのだが、問題はこれからである
水洗タンクは一定時間ごとに作動するようで、時折ものすごい音を立てて眼下の側溝に水が流れる
流れるのは水だけではない
上流にあるXXがすべて眼下を通過するのはものすごい光景である
従って、このタイプの便所を使用する場合はなるべく上流の位置を選定するのが望ましい

いずれにせよこういったオープンな便所は慣れない外国人にとって恐るべき存在である
10年以上前に北京で聞いた話であるが、日本人駐在者の幼い娘さんが便所から泣きながら飛び出してきた
なんでも、中で小姐が複数並んで談笑しながら爆弾を投下しており、あろうことかヒマワリのタネを食っていたのだという
わが国では決してやってはいけないタブーをすべて見せ付けられたのだから相当の衝撃であったことだろう
余談であるが、今はともかく私が留学していた13年前当時は男よりも女性のほうが環境適応能力が強いと言われていたものだ
あくまで私見であるが、われわれ野郎どもはこういった便所を利用する際に投下物を液体に限定することで比較的ショックを受けずに済むのだが、女性の場合投下物の如何にかかわらず件のおそるべきオープンな便所(われわれは改革開放式便所と呼称していたものだ)を利用しなくてはならない
出物腫れ物所選ばずというが、大陸で生活をする以上こういった便所が利用できないでは部屋から一歩も出ることはできない
従って、異文化に接触したごく早い時期において、こういったキョーレツな一線を越えてしまうことで却って精神的にstableな状態となり、爾後如何なる状況にでくわしても動じなくなるのではなかろうか
話が話であるので直接聞いてみたことはないが、おそらくはそういうことであろうと思っている

さて、共産圏後進国の象徴たる外貨兌換券が廃止されWTOにも加盟し、来年はオリンピックすら開こうという現在、上述の「改革開放式便所」は大陸の目立つところからはずいぶんと駆逐された
今ではデパートはおろか工場のワーカー便所でもちゃんとトビラがついているので一応は密室化が果たせたようだ
ところが変わらないのが中国人の恐るべき衛生観念で、中国人の便所を使う様の壮絶さと来たら目を覆うばかりである
駅の便所などは床一面が小便にまみれ、ためにスーツケースを携行している場合は左手で提げて車輪が決して床面に接触しないように根性で耐えなければならない(広州東駅の地下鉄入り口前の便所はいつもこうだ)
もっともこれは中国人の泌尿器に根本的欠陥があり照準精度に致命的問題があるからではなく、中国人の感覚では床や地面はいくら汚してもかまわないという認識だからである
これを裏付ける事象は多い
一般家庭などでも洋式でないところは和式に似た(ただしキン隠しはない)構造になっているが、小便の場合もこれを用いるようになっている
内地の和式便所は小便にも対応できるよう30センチほど高いところに設けられているが、大陸の場合はまったくの床面である
椎名誠著「インドでわしも考えた」によれば、氏がインドで目撃したもっとも悲しい光景とは、カースト制による差別でも絶対的貧困でもなく、「インド男のすわり小便」であったらしい
中国人はインド人と違って小便ごときでしゃがんだりなどしないので、当然便器の上空80センチからの自由落下による排泄を行う
これが初弾命中となることはまれで、また水圧の関係で弾着は一定せず、状況によっては散弾銃のように散布界が広くなってしまう
早い話が床自体が便所なのであり、汚れようがかまわないのである
さらにおそるべき伝聞情報があり、なんでも件の「インド男のすわり小便」のまったく逆のパターンが大陸では現出されるという
女性が便所で液体を排出する際、出自や年齢、教育レベル次第だが、まず便器に向かって正対した後着衣を下ろして「回レ右」、次いで「室内無帽ノ敬礼」のように若干尻を後方に突き出し両足は「休メ」の姿勢のように間隔を取り、極道の親分を迎えるような姿勢でそのまま排泄を行うことがあるらしいと聞く
そういうわけであるので大陸の便所には、自律的に清潔さを保てる余地など存在しないのである

大陸の便所のこまった点はなにも汚いだけではない
ホテル以外では紙を備えているところはまったくなく、工場の幹部用便所に至るまで紙は各自持参が基本であるが、理由は言うまでもなかろう
また、洋式便所のフタがコワれていることが非常に多い
こちらの製品は設計の時点で何を考えているのか理解に苦しむものが実に多いのだが便所のフタも例外ではなく、どういうわけか陶器の便器と締結する部分がやたらに壊れるのである

さて、日本においても洋式便所が気に入らない人はいるに違いない
中には長銃身が便器の内側に接触することで銃腔腐食を懸念するうらやましい人もおるであろうが、一般的には他人がケツを乗せたところにわがケツを乗せるのを潔しとしない向きが主流であろうと思う
中国人もそのように思うのかどうか知らないが、洋式便器の上に土足で上がりこむ横着者がいる
工場事務所の洋式便座にはたいてい土足の足跡がついており、ヒドいものになると便座の上からじかに乗っていることも少なくない
また、便座が下がっているにもかかわらず小便をする無礼者もおり、便座カバーのためにストライクゾーンが狭くなっていることもかまわずブチまけるためビチャビチャだ
そういえば先日本国の出張者が広州東駅で爆弾投下に出かけたのだが帰りが遅い
このままでは列車に遅れてしまうとヤキモキしだした頃にようやく帰ってきて、このように訴えた

「はじめはね、普通のところを探したんだけどみんなグチャグチャで全然だめなんだよ。それで身障者用の便所に入ったんだけどやっぱり便座がビチャビチャで、でもどうしようもないからちゃんと拭いて使ったよ。いやあ、まいった」

そういうことであるので、ただでさえ弱(ジャク)いつくりの便座である上に腐食性の液体が常にかかる状況下に置かれており、時には本来の設計では想定していない局部加重がかかるため、便座は往々にしてハカイされていることが多い
つまり陶器の便器と便座を締結する部分がコワれたり、便座のヒンジがイカたりして「取り外し式便座」になっているのである
もっとも取り外し式になっているだけで便座自体がちゃんと横に安置もしくは放置されているならまだよいが、便座自体が消滅している場合もあるので油断できない
このように、「コワれた便座」は「大陸の洋式便所」に対し、係り結びの関係にあるのである

翻って、わがマンション「悪の牙城」の部屋は私が最初の入居人であることもあり、ここは治外法権の日本国領土である
大陸の混沌からは一線を劃した快適な居住環境を実現すべく可能な限り日用品は日本製にこだわり、毎回帰国の際にいろんなものを持ち込んでは日本製品濃度を挙げるべく邁進している
先日持ち込んだ神棚にしてもそうだ
ここは大陸と同じであってはならない
あらゆる不具合は徹底的に改善する
大陸にいることを想起せしめるような問題にでくわすのはたくさんだ
そう思っていた矢先に便所の便座が音を立てて外れた
宗教的なホホエミを浮かべ、私は途方に暮れた
上記の2行を書くために、なんとまあ長々と駄文を重ねたことだろう
かようにも大陸では便所のことで悩まされるのである

古来日本国には八百万の神々がおわし、便所にもちゃんと女の神様がおられるのだが、便座のフタがこうもあっけなくコワれるところを見ると、私の住むマンション「悪の牙城」の部屋にはまだお越しになっておられないようだ
たぶんビザの関係でモメているか、あまりにもキタナイ国であるのできっとイヤがっているに違いないと思う