皆殺しの挽歌

大陸での生活は往々にしてたたかいを伴うのである
業務上の死闘、日常生活におけるボッタクリバイタクや服務態度が劣悪な店員との闘争に加え、蚊やコックローチなど昆虫とのたたかいをこなしているうちに、華南駐在日本人の眼光は期せずして戦闘的になってくる
昆虫とのたたかいについては過去に何度か触れてきたが、私がもっぱらたたかってきた相手は蚊であった
工場4階の寮にいた時はもちろんのこと、マンション「悪の牙城」28階に引っ越してからも蚊とのたたかいは依然として継続しており、さすがに今は冬であるため暫時休戦中であるが、代わりに別の敵とたたかう羽目になったのである
前に、居室が28階であるにもかかわらずコオロギの声が聞こえると書いた
なるほどあれは秋の訪れを感じさせる優雅なものには違いないが、どうも私の部屋の中から鳴き声がするようで、どうやら部屋の隙間のいずこかに定住してしまったようだ
昼間は寝ているのか鳴き声が聞こえないが、夜10時を回るとコロコロとやかましい音が始まり、これが実に翌朝まで続くのであるからすっかり不眠症になってしまった
寒くなればそのうちいなくなるであろうという当初の読みは月餅のように甘く、12月の中旬に至るもナリを潜めるどころか、当初はソロ演奏であったものが次第にデュエットとなり、クヮルテットを経て遂にはベートーベン交響曲第9番4楽章のように盛大なものとなったのである
昆虫の分際でナマイキにも暖かい場所を心得ていると見え、どうも次第に仲間を勧誘して遂には一大群生地を形成するに至ったようだ

先日内地に一時帰国し、年が明けた1月5日に再びわが城に戻ってきたのだが、コオロギの声が依然として鳴り響いているのを耳にするに至って遂に堪忍袋の緒が切れた
このままではコオロギが越冬してしまうではないか
私の目に殺気が宿り、アタマの中には行進曲「抜刀隊」が高らかに鳴り響く おのれ昆虫フゼイと思って今まで甘く見ていたが、どうやら天誅を下す日が来たようだ
敵が生息している箇所は概ね見当がついている 音がする方角と角度から判断して冷蔵庫の下に違いない
おもむろに冷蔵庫をズラしてみると、確かに大小含め無数の敵が集結しているのを発見した
早速内地から持ち込んだブキであるお座敷用ホウキを取り出し、チリトリを構えて掃討作戦を実施した次第である

ところがホウキでカキ出すまではよかったが、動く奴をチリトリに入れるのに難儀した
もたもたしているうちに4割くらいが戦線離脱を図り、まんまと逃げられてしまう
一般に軍隊では、全滅とは4-5割の損害により戦闘単位としての継戦能力を喪失することであるが、この場合は完全に殲滅しつくさなければ意味がない
本来ならば化学兵器である殺虫剤の使用が妥当であるかもしれないが、「必殺」とか「必撲」などと書いてあるこちらの殺虫剤は敵に対する殺傷力よりも友軍に対する安全性の面で懸念が残り、特に私の部屋は風通しが悪いので殺虫剤の使用は控えなければならない
昆虫に対して非常に効果的であるのが霧吹きに入れた75%薬用アルコールとライターを併用した火炎放射攻撃なのだが、今回は室内であることから火災を起こしてしまっては元も子もない
そういうわけで通常戦力による逐次撃破を試みるのだが、前述の通りコオロギはあちこちハネ回るのでなかなか難しいのである
とりあえずヴェランダ状になっている台所(ただし水道もガスもない)はおおむね無力化できたようであるので洗面所で手を洗い、寝台に横になってタバコを一服つけていると、5分ほどして至近距離から敵の鳴き声が聞こえてきた
これまではヴェランダのみに生息していた敵がどうやら居室内に侵入して来たようだ
ゲルマン人の大移動のように、ヨソの勢力によって追い立てられた一群が別の地域でワルサをはたらいた例は歴史上前例がゴマンとあるが、ヴェランダにいてさえやかましいコオロギにあろうことか寝台の下などへ大移動されてはたまらない
ついに全面ミナゴロシ作戦を発動するに至ったのである 深夜であるにもかかわらず大仰な音を立てて寝台をどかし、山と積もったホコリをすべてカキ出すテレビ台の裏も同様にカキ出し、ウレタンモップで床を徹底的にミガき上げる
ヴェランダに配置してある流し台(ただし水道もガスもない)はどかすわけには行かないので、お座敷ホウキを突っ込んでから盛大にカキ回し、敵を物理的にバラバラにしてから掃き出す
敵が侵入したと思しき隙間は片っ端からビニールの切れっ端で埋める
一連の活動が収束した頃にはすでに時刻は夜2時を回っていたが、さすがに物音ひとつ聞こえないすばらしい静寂が久方ぶりにわが城を訪れた
しかし慢心してはいけない 東郷元帥の聯合艦隊解散ノ辞に述べられているよう勝ってカブトの緒を締めよ
今後は散発的に残敵掃討の遭遇戦を展開することになるであろうが、ともかくも安心して寝られる環境を取り戻せたことは慶賀の至りである